黒岩東五(くろいわ とうご)

黒岩東五 著「万病にいどむ健康医学―「治る医学」を求めつづけて」(健康医学総合研究所;健康医学社〔発売〕、2002年4月 出版)

黒岩東五、中山貞男 著「東洋医学から生まれた大麦黒酢―玄米黒酢を超えた!」(健康医学社、1998年5月15日 第2刷)より

81歳。
1967年(昭和42年)、健康医学社を設立。
1969年、鹿児島県の伝統醸造法による玄米黒酢を復活させる。
1974年、隼人工場(現在は閉鎖)にて玄米黒酢の醸造開始。
 真空浄血治療器「バンキー」SRの製造開始。
1975年、書籍『純粋米酢の効用』出版。玄米酢ブームがはじまる。
1976年、国分工場操業開始とともに、温泉熱を利用し年間を通じて玄米黒酢の製造を可能にする。その後も今日に至るまで、国分工場にて開発した健康補助食品などは多数。
1996年には、アミノ酸が多く含まれる大麦から黒酢を造ることに成功した。
著作は『新真空浄血療法』、『VAC健康法』、『わが思想 わが医学』(すべて健康医学社)など多数。

黒岩東五 著「真空浄血療法入門」(健康医学社、1995年12月20日 第4版)より

はしがき
第1章 浄血と健康
 第1節 新健康長寿法
 第2節 健康と食生活
 第3節 東洋医学の病理観
第2章 真空浄血療法
 第1節 医学の歩みとその展望
 第2節 真空浄血療法とは
 第3節 真空浄血療法の基本的治療点
 第4節 浄血原理の科学
 第5節 真空浄血療法の治療原理
第3章 原点の医学
 第1節 慢性病を防ぐために
 第2節 中風治療の実際
 第3節 水虫の浄血療法
 第4節 真空浄血療法の真髄
あとがき

《広告》
黒岩東五著 新真空浄血療法 いま最古の医学から二十一世紀の医学へ
黒岩東五著 難病にいどむ奇跡の療法 真空浄血療法理論の絶好の手引書

黒岩東五 著「真空浄血療法」(健康医学社、1974 年3月1日 3版)より

第1章 真空浄血療法 創始の動機とその背景
1 私の結核はこうして治った

《23〜24ページ》
昭和13年3月18日、軍隊で結核を発病して陸軍病院へ送られ、ついで14年11月、服役を免除されて、ここ傷痍軍人療養所へ送られ、幾度かの喀血と、左肺尖の空洞とたたかいながら、ひたすら自然療法の模範的な実践者であった私が、満3ヵ年後に、体験したこの苦痛。私は、信ずるものに裏切られたような、深い、大きな心の痛手を受けた。
私の父は医者であった。医家に生まれ育った私が、現代医学の教える自然療法を、微塵も疑うはずがなかった。(略)

《25ページ》
私は、今ここで死んではならないと思った。西洋医学だけが、絶対的医学ではない、ほかにも医学がある。私はそれを研究してみようと思った。それから、私の医学の遍歴がはじまった。

《26〜27ページ》
しかし、私が、自分の結核をなおすために、西洋医学一辺倒から、医学の遍歴をはじめたその中で、最も私の興味を呼んだのは、東洋医学の中にある、東洋古来の“経絡”と、前阪大病理学教授片瀬淡博士の“酸塩基平衡”の学説であった。(略)
酸塩基平衡の学説は、血液の酸とアルカリの学説で、一口にいえば、浄血の学理であり、原理である。そして、東洋医学の経絡は、在来はもっぱら針灸が治療に応用しているが、これは、人体の浄血個所を示す指標であると思った。(略)私は、その学理が、あまりにすばらしいかわりに、具体的な浄血の実践方法が示されていないのがかなしかった。私は長い間、迷いそしてためらった。
(略)
病床で、来る日も来る日も毎日考え、そして悩んだ。ある日私は、この〓血を体外に出せばよいのだと思った。それには吸い出すことだと考えた。さて、その方法としては古来の吸玉がよいのではないかと思いついた。(略)

《28ページ》
同病の友人たちは、患部にそのような刺激を与えては、かえって逆効果になるからと、しきりにやめるように忠告してくれた。

《29ページ》
それでも同病の友人たちは、私の行動を白眼視して、遠くから見守っていた。

《30〜31ページ》
かくして、私たち二人の病状は悪化どころか、月をふるにつれて好転し、ついに19年の暮、退所するはこびとなった。私は、それ以来健康で、昭和13年の春の発病以来、まだ一本の抗生物質を使用したこともなく、パスなどを服用したことも一度もなく、従って私の場合、耐性菌など心配することもないが、私の結核は、くすりで治ったのではなく、浄血による自然治癒力で治ったことは明らかである。そして、再発することもなく、すでに結核治癒後二十数年を経ているが、ますます健康にめぐまれている。当時、私たちの吸玉をあざけり笑っていた同室の友人たちは、その後ほとんど亡くなっている。私は今も相変らず、週に一、二度は、真空浄血療法をかかしたことがない。
一方、下屋敷君は、19年の暮れに全快退所したにもかかわらず、その後、吸玉をおこたって、過労がたたり、惜しくも25年の春、桜の花の散るころ、はかない一生を終えた。(略)

《khon注:〓は、やまいだれに於》

黒岩東五 著「軍事保護院推薦 恩寵記」(小学館、1944年2月21日 初版)より

著者紹介
工業学校卒業後感ズルトコロアツテ教職ニ携リ支那事変ニ応召中病ニ倒レ傷痍軍人鹿児島療養所ニ収容サレ治癒退所後鹿児島県立加治木工業学校ニ勤務

自序
(略)
退所後、私には第二の人生のスタートにもたとふべき、与えられた職場は、私の母校の教壇であった。(略)

《khon注:漢字は新字体に改めた》