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(略)
デヴィ夫人が『ジャパンメディアシステム』(JMS)というIT企業の未公開株を、同社の大株主・臼井龍夫氏から株価80万円で25口、2000万円分を譲り受けたのは平成13年7月末のことだった。
「臼井さんとJMSの富樫泰章社長にお会いした時に、コンピューターを電話回線につなぐと顔を見ながら会議ができる機械とソフトを製造販売するという計画を聞かされました。しかも、この機械は韓国で900万台も売れた実績があり、日本でも300万台は売れるはずだと言うのです。“これは凄い!”と、私も大変びっくり致しましたの」
(略)
元本保証で株が買えるのなら損する人間などいない理屈だ。が、何をどう思い込んだのか、彼女はさらに10口、800万円分の株を今度は富樫社長から直接買ってしまう。しかもその後は、JMSの商品説明会などに招かれて広告塔の役まで務めていたのである。
「株の上場話で騙されたと気づいたのは翌年になってからです。“嘘じゃないですか”と臼井さんに詰め寄って2000万円は取り返しましたが、残りの800万円は戻りません」
(略)
「私も1億円分の株を持っていましたが、JMS株上場の夢が破れて、400万円で手放した」(臼井氏)
(略)
「株を買ってもらった見返りに、彼女からは何の役にも立たない“ビザンチン帝国時代のナイトの称号”なる物を250万円で買わされました。また、富樫社長も110万円の指輪を買わされたはずですが、デヴィさんは自分がトクした話は一切、口にしない」(同)
800万円損しちゃったデヴィ夫人だが、あまり同情されないようである。
ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ
Ratna Sari Devi Sukarno
1959年6月、“インドネシア共和国独立の父”であるスカルノ大統領と訪日中に出会い、同年11月、ジャカルタで結婚。
1960年以後、日イ友好協会名誉会長に就任。日本からの戦争賠償金の一部を基金として、インドネシアの優れた学生を選抜、留学生として500名以上を日本に送る。同時に東京にインドネシア留学生会館も設立。また、日本帰還の望みも援助もない残留日本兵九百名にインドネシア国籍を与え、彼らの身分と生活の保護をするなどスカルノ大統領の政治的理念を補佐する傍ら、独立以後15年のインドネシア経済の基盤づくりのため砕身。その過程で、資源のない日本にインドネシアの豊富な資源を、また、日本からはテクノロジーと資本をインドネシアに導入、両国の相互扶助に貢献する。
1967年 独立後22年目にスカルノ大統領が終身大統領を解かれ、その3年後、1968年6月にジャカルタで逝去。その後、幼いカリナ嬢を連れ、パリに亡命。社交界の華と賛美され「東洋の真珠」と称される。
10年後の1980年、時機の到来を感じ、インドネシアへ。フランスのエンジニアリング会社Technip、建設会社Fougerolle、スペインDragados、イタリアE.N.I.グループNuovo Pignone重工業会社、米英のFoster Wheeler社のエージェントとして、ジャカルタにP.T.Imcor社を設立。90年までに、主に石油・ガスの分野でプラントなどの建設、重機サプライの事業に専念する。この間、環境問題に強い意識と関心を持ち、インドネシアの商工会議所、ロータリークラブなどを通じて環境保護の協力、促進を求め、努力する。また、インドネシア国立の石油会社に、プラントを建てる度、アンチ・ポリューション・ユニットを作ることを勧め、実行されている。
10年間、インドネシアで事業に専念した後、ボストンに留学していたカリナ嬢の卒業とともに1991年、ニューヨークへ移住。
UNEP(国連環境計画)傘下のアスペン市にあるThe Earth Voices基金やイヌイットやアジア先住民及びアメリカン・インディアンの権利と生活の促進に必要な種々の援助を行う。また、UNEPのためのボランティアとして、熱帯雨林、先住民、消えゆく生態等の保護、人間社会環境の改善のため尽力する傍ら、手がけた野生の動物等の水彩画37点を慈善オークションに出品、$100,000を国連に寄付する。
この他、イタリアのイブラ音楽財団の名誉会長として、毎年、コンサート・ピアニストとオペラ歌手コンクールの優勝者達に奨学金を与え、カーネギーホール、リンカーン・センター、国連ダグラス・ハマーショイルド・ホールにてコンサートを開いている。
日本でも数々のテレビ番組に出演。全国各地で国際的視野の形成、人生観の確立等をテーマに講演会を行うなど、多岐にわたり活躍している。
《156ページ 写真のキャプション》
ビザンティン皇室慈善舞踏会にて。プリンス・アンリ・コンスタンティン・パレオロゴ殿下ご夫妻と
(略)
まず、ニセ有栖川宮殿下の自宅は京都市内にある家賃十八万円の高級マンションだが、この部屋を借りたのは『グランドキャピタル(株)(以下、グランド社)』(東京・新宿区)なる聞きなれない会社だった。(略)
また、ニセ有栖川宮は『蘇生回帰(株)』という会社の役員に就任していたが、同社の登記簿にはグランド社関係者が役員に名を連ね、グランド社は『蘇生回帰』に対し、短期貸付金として八千七百二十万七千二百九十円を融資している。蘇生回帰社は「有栖川識仁書」「宮内庁献上品」というラベルが貼られた「神機水(かんながらのみず)」という怪しげな飲料水を販売していたが、この商品はグランド社でも販売されていた。
(略)
グランド社は昨年八月、大手町に聳え立つ「野村ビル」二十二階の全フロアーを借り切って本社オフィスを構え、盛大なオープニングパーティを開催している。パーティで挨拶した顔ぶれは長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の夫人、亜希子さん、タレントのデヴィ夫人、フジモリ元大統領、そしてニセ有栖川宮……。
しかし、この盛大なパーティからわずか三カ月後、昨年十月二十五日、グランド社は東京地裁に破産宣告を受けた。破産管財人らが大手町の豪勢なオフィスに乗り込んだ時はすでにもぬけの殻。
(略)
「オフィス・デヴィ・スカルノ」に問い合わせるとグランド社の謎のオーナー・矢澤俊治との出会いは一年半前、場所は銀座の有名クラブ。夫人は女性実業家の片岡都美氏の誕生日会に招かれ出席したというが、その席に矢澤俊治氏が来ていたという。
「“青年実業家”と紹介され、グランドキャピタル会長というお名刺を頂いた。フジモリ元大統領もいらっしゃいました。(略)」(同オフィス)
(略)
黒船にあやかり、赤穂浪士にもちなみ(?)「白船義士団」――。こんな大時代的な名前を付けたグループが10月末、日本から北朝鮮に向かうという。テレビのパロディ番組ではない。団長は、あの元赤軍派議長の塩見孝也氏。ほかにも有名人が続々参加の予定だという。目的はずばり「拉致問題打開を目指す」。一方、拉致被害者家族らからは、「北」の謀略を警戒する声が上がっている。
本誌 北朝鮮問題取材班/撮影 吉川努
(略)
〈平和の船による朝鮮訪問団を熱烈に歓迎する〉
コピーには、そうした「伝言」とともに、確かに北朝鮮の平壌ホテルから「7月22日(午前)10時25分」にファクスで送信されたことを示す文字があった。
発信者は、康成輝(カンソンフィ)なる人物。「国際民間交流協会」代表兼事務総長という肩書と、朝鮮労働党中枢に直結するパイプを持つ在日朝鮮人だ。クリスチャンという以外は、素顔がほとんど知られていない。
塩見氏は、7月初め、その康氏に手紙を託した。金正日総書記(国防委員長)と朝鮮労働党中央委員会にあてたもので、訪朝希望をしたためた内容だった。
その返答が冒頭のファクス。
(略)
ファクスの文面をよく見ると、そこには「団長デヴィ夫人」の文字が……。当初、グループの団長はなんと、あの“ワイドショーの華”だったというのだ。
もともとデヴィ夫人は、ボランティア活動家としても有名で、今回の訪朝参加も強く希望していたが、最近になって参加が困難な状況になったという。
そこで、急きょ団長は訪朝発案者の塩見氏となり、副団長には「新右翼」一水会顧問の鈴木邦男氏が就任することに。
(略)
《ファクスのコピー(khon注:判読できない文字は○にした)》
自主日本の会
代表 塩見孝也 様
(塩見さんには FAXでお伝え下さい)
PYONG YANG
HOTEL 338
KANG SONG HW
前略
7月10日(木) ○ースの為、新潟空港出発、ウラジオストーク経由、ピョンヤン到着
ピョンヤン ホテル 338号 宿泊〉泊。
7月17日(木) 片岡都美、塩見孝也 連名による手紙を責任担当者に
正式に伝達、具体的に説明しました。
7月18日(金) 平和の船による訪朝団(9.9 朝鮮建国55周年、
9.17 ピョンヤン宣言1周年 記念 朝鮮訪問団、団長 デビ夫人)
歓迎、及び 事務局体制(国際民間交流協会と朝鮮側は
明花貿易事務所をかりる)を、スタートさせました。
追徴金五千万払ったばかり デヴィ夫人が3億円豪邸を買っていた
この物件のもともとのオーナーは、ヘルス器具「バブルスター」で一世を風靡した原ヘルス工業の原善三郎社長。
その後、この物件は平成三年に東京都や大蔵省によって差押さえられ、平成十二年に所有権は第三者に渡ったが、今回の売買も原社長が紹介したという。
(略)
「悪徳マルチ商法」の広告塔になぜか「長嶋茂雄夫人」
100万円の品物を買うだけで1年後には200万円になる─そんなマユツバな儲け話が、不景気になるとなぜか流行りだす。
問題の会社『グランドキャピタル』も、そうやって、たった1年で数百億円の金をカキ集めてしまったのである。
同社の元幹部がそのカラクリを説明する。
「この会社は、もともと矢吹寿雄という人物(“矢澤”を名乗ることもある)が宝石のマルチ商法を手掛けたことから始まったのです。(略)
宝石で味をしめた同社は、布団、健康食品と次々と手を広げるようになる。(略)
「あの会社は講演会やディナーショーといっては頻繁に有名人を呼ぶんです。中には会長(矢吹氏)と相当親しい芸能人もいましたよ。例えば、演歌歌手の三沢あけみはイメージキャラクターだったし、パーティにもよく来てました。三沢さんは今年の4月に交替したんですが、彼女の次に宝石のイメージキャラクターになったのがデヴィ夫人です。会社によるとそれ以外にも“デヴィ・ブランド”で化粧品や健康食品を販売してゆく計画があったそうです」(会員の一人)
ちなみにデヴィ夫人の次は女優のブルック・シールズを後釜のイメージキャラクターに予定していたとか。この他にも、ペルー元大統領のアルベルト・フジモリ氏を特別顧問に迎えたとして『インカ帝国誕生3000年記念純金金貨コイン』なるものを発売したり、同社が主催した九州『高天ヶ原神社』のツアーに元皇族が同行したりもしている。
(略)
この会社、いよいよ破綻すれば被害者は約1万人に及ぶと見られ、被害総額も400億円はくだらないという。誰が見ても典型的な悪徳マルチ商法なのだ。
そこで“広告塔”にされた皆さんに聞いてみた。
「機関誌に写真を使いたいというのでOKしました。ディナーショーにも出たけど、マルチだなんて思いもよりませんでした。」(三沢あけみの事務所関係者)
「頼まれて一度だけ講演したことがありますが、危ない感じがしましたから、それっきり付き合ってません」(デヴィ夫人のマネージャー)
そして当の長嶋亜希子さんはというと、
「景色のいいビルでパーティやるからと誘われただけなんです。マルチだなんて知りません。まあ、私は広告塔として利用されたということなのね」
ダンナも自分も“人寄せパンダ”はもう馴れっこ、ということらしい。
しかし、被害者はそれで納得するのかしら?
第四章 心のおしゃれ、体のおしゃれ─「粋」
■私の“若さの秘密”、お教えします─ダイエットに最大効果、飲んで美しくなる『東洋の真珠』
自慢話になってしまいますけど、私が初めてパリの社交界にデビューしたとき、私はみな様から「オー、東洋の真珠! マダム・スカルノ!」とおホメの言葉をいただいたものです。私の肌の色の透きとおるような白さから、パールを連想なさったのでしょう。
みずみずしく透明感のある美肌─。女性なら永遠にこのままでいたい!と思いますわよね。
そして私がこの40年間若さを保ち、みな様から「とても還暦には見えないわ!」と言っていただける私の“秘密の玉手箱”─。それが実は“飲んで美しくなる内面美容茶”『東洋の真珠』なのです。
前項で、私は基礎化粧品としての『ラ・デヴィーナ』のお話をしましたね。こちらが“外面の美容”ならば、『東洋の真珠』はさしずめ、体内から美しくする“飲む化粧品”と言ってよいでしょう。あなたの内面から響き出す美しさをコーディネートします。
まさに“外面の美”と“内面の美”の競演がもたらす、美のハーモニィです。同じカリナ化粧品の製品として、私のパリ時代の讃辞からネーミングさせていただきました。
成果は、私が保証いたしますわ。私自身が生きた広告塔。私の顔やスタイルを見ていただけば、わかると思います。私の肌だって、まだまだ捨てたものじゃないとお思いになりません?
ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ
RATNA SARI DEWI SUKARNO
1959年 インドネシア共和国独立の指揮者であるスカルノ大統領と訪日中に出会い、同年11月にジャカルタで結婚
1967年 独立後22年目、スカルノ大統領が終身大統領を解かれる
1970年〜スカルノ大統領逝去。その後、パリに亡命。社交界の華として賛美され、“東洋の真珠”と称される。
1980年〜パリからインドネシアに戻り、実業家として、石油・ガスの分野でプラントを設立するなど、各事業を展開。
1991年 ニューヨークへ移住。
UNEP(国連環境計画)傘下のアスペン市にある“The Earth Voices”のための募金や、イヌイットやアジア先住民及びアメリカン・インディアンの権利と生活の促進に必要な種々の援助を行う他、手がけた野生の動物等の水彩画37点を1993年、慈悲オークションに出品、$100,000を国連に寄付する。
この他、イタリーのイブラ音楽財団の名誉会長として、毎年、コンサート・ピアニストとオペラ歌手コンクールの優勝者達に奨学金を与え、カーネギーホール、スタンウェイ国連ホールにてコンサートを開いている。日本でも数々のテレビ番組に出演。全国各地で国際的視野の形成、人生観の確立等をテーマに講演会を行うなど、多岐にわたり活躍。
主な著書に「パリからの手紙(光文社刊)」
「デヴィ・スカルノ自伝(文芸春秋社刊)」
「愛をつなぐ〜The bond of Love〜(冬青社刊)」
プロフィール
ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ/Ratna Sari Dewi Sukarno
1959年6月、インドネシア共和国独立の指揮者であるスカルノ大統領と訪日中に出会い、同年11月、ジャカルタで結婚。
1960年以後、日イ友好協会名誉会長に就任。日本からの戦争賠償金の一部を基金として、インドネシアの優れた学生を選抜、留学生として500名以上を日本に送る。同時に東京にインドネシア留学生会館も設立。また、日本帰還の望みも援助もない残留日本兵数百名にインドネシア国籍を与え、彼らの身分と生活の保護をするなどスカルノ大統領の政治的理念を一貫して補佐する傍ら、独立以後15年のインドネシア経済の基盤づくりのため砕身。その過程で、資源のない日本にインドネシアの豊富な資源を、また日本からはテクノロジーと資本をインドネシアに導入、両国の相互扶助に貢献する。
1967年 独立後22年目にスカルノ大統領が終身大統領を解かれ、その3年後、1970年6月にジャカルタで逝去。その後、幼いカリナ嬢を連れ、パリに亡命。社交界の華として賛美され、“東洋の真珠”と称される。
10年後の1980年、時機の到来を感じ、インドネシアへ。フランスのエンジニアリング会社 Technip、建設会社 Fougerolle、スペイン Dragados、イタリーの E. N. I. グループ Nuovo Pignone重工業会社、米英の Foster Wheeler社のエージェントとして、ジャカルタにP. T. Imcor社を設立。90年までに、主に石油・ガスの分野でプラントなどの建設、重機サプライの事業に専念する。この間、環境問題に強い意識と関心を持ち、インドネシアの商工会議所、ロータリークラブなどを通じて環境保護の協力促進を求め、努力する。また、インドネシア国立の石油会社に、プラントを建てる度、アンチ・ポリューション。ユニットを作ることを勧め、実行されている。
10年間、インドネシアで事業に専念した後、ボストンに留学していたカリナ嬢の卒業とともに、1991年、ニューヨークへ移住。
UNEP(国連環境計画)傘下のアスペン市にある“The Earth Voices”基金のための募金や、イヌイットやアジア先住民及びアメリカン・インディアンの権利と生活の促進に必要な種々の援助を行う。また、UNEPのためのボランティアとして、熱帯雨林、先住民、消えゆく生態等の保護、人間社会環境の改善のため尽力する傍ら、手がけた野生の動物等の水彩画37点を1993年、慈悲オークションに出品、$100,000を国連に寄付する。
この他、イタリーのイブラ音楽財団の名誉会長として、毎年、コンサート・ピアニストとオペラ歌手コンクールの優勝者達に奨学金を与え、カーネギーホール、スタンウィルホールにてコンサートを開いている。
日本でも数々のテレビ番組に出演。全国各地で国際的視野の形成、人生観の確立等をテーマに講演会を行うなど、多岐にわたり活躍。
今後も、破壊されてゆく地球の保全、また、世界中の人々の心と精神の繁栄のため、「愛」を説いていきたいと考える。
《19ページ》
更生のセーラー服を着た私の自信は、学校で松坂さんという子を見た瞬間、こなごなになってしまった。松坂さんは真新しいピンクのワンピースを着、髪も野暮ったいおかっぱなどではなく、長く垂らしてリボンで結んでいた。実際、ピンクのちょうちん袖は、うっとりとなるほど美しかった。世の中には金持の子がいる。そして私は貧乏だ! 小学校という社会での第一歩で、私は生涯忘れることのできないほど衝撃を受けた。
《23ページ》
そのころ急造家屋の屋根によく使われていたトントン葺の木っ端で、ふと見ると、道ばたにまだ柱だけのバラックがあり、屋根の上に小さな影がうずくまって、この寒空の下でトントン葺を並べていた。
「かわいそうね、こんなに寒いのに」
友達がそう言ったのと、私がそのみじめな影を父だと気づいたのが同時だった。瞬間に、からだじゅうの血が逆流した。
「あれ、うちの父よ」と言う勇気はなかった。そんな姿で働いている父が、このうえなくあわれだった。
《24ページ》
終戦直後の荒波にもまれながら、わが家は辛うじて生きていた。少しでも気を許せば、ずぶずぶと波の底に沈んでしまうかもしれなかった。
《50ページ》
父が倒れたのは、就職して2年目の年の暮れだった。「疲れた」と言いながら仕事から帰ってきて、床をとらせて横になると、それっきりもう起きあがることはなかった。
《56ページ》
17歳の誕生日を待って、私は千代田生命に退職願を出した。高校のほうはもう少し続けることにしたが、退職と同時にホステスに変身し、家のほうも母と弟を連れて独立することにした。その年で、私は自らの人生の舵を握った。
《68ページ》
あたかもそのときだった、コパカバーナにB氏が来た。
スカルノ大統領と私のあいだを橋渡しした某貿易会社のB氏のことは、すでに「デヴィの周旋人」として多くの日本人に記憶されている。
《81〜82ページ》
児玉誉士夫氏邸を尾頭つきの鯛を持って訪ねたのも、大統領の名誉のためにB氏と政界とのつながりを断ってほしいとお願いするためだった。
築地の料亭で、大野伴睦老に直訴したこともあった。だが、私は真面目に話すつもりだったのに、分厚い座布団にだらしなく埋まり、両脇の芸者の袖に手を入れている老人を見ると、言葉がのどにひっかかって出なかった。それにくらべると、B氏の応援者とうわさされていた河野一郎氏は、伴睦老とは正反対だった。(略)
62年2月に母と弟が死ぬまでは、B氏に二人の面倒を見てもらっていることもあり、私にとって、たいへん辛い思いだったが、一人になってしまってからは、全身全霊をあげて大統領に尽くせばいいのだから私も身軽だし、大統領も私との約束を違えるようなかたでは絶対になかった。その後の私は、日本へ帰ると、よくこわい目に遭った。顔に傷のある男が数人、羽田で私を黙って取り囲んだり、ホテルのロビーで、それとわかる鋭い視線を注がれたり、警視庁の人が私の部屋に届けられる花束の中身を綿密に調べなければならなかったり……そのたびに身が縮まる思いだった。
《110ページ》
それと前後して、私は、一家の戸籍を、母と弟が移っていた世田谷区等々力に移籍した。
(略)
ところが、私の不在中に、弟は殖産住宅のセールスマンの口車に乗せられ、留学資金に取っておいたお金まで貸して不渡手形をつかまされていた。
《244〜245ページ》
日本の週刊誌の攻撃は、すでにそれまでも相当にはなばなしかったが、大統領が落ち目になると同時に、まるでせきを切ったように私を襲った。元ホステス、第三夫人、クーデターなどという興味に加えて、そのころは大統領の亡命のうわさがぱっと立っていた折りで、66年11月に妊娠6カ月のお腹をかかえて羽田に降り立った私は、硬軟さまざまのジャーナリズムが浴びせる集中砲火の中に身をさらしてしまった。
(略)
週刊誌が店頭に並び始めると、はたして、目も当てられないことばかり書かれていた。日本の恥だ、商社を手玉にとっている、家族を見捨てた……考えられるいやらしい侮辱はみんな浴びせられた。そして日本には週刊誌が書いたことを鵜呑みに信じてしまう読者が何百万人もいた。
His Imperial and Royal Highness Prince Henri Constantine De Vigo Paleologo presided
One special guest was Dame Commander R.S. Dewi Sukarno
ビザンチン皇室王子ヘンリ・コンスタンチン・デ・ヴィーゴ・パレオロゴ閣下ご臨席。
特別ゲストの一人はレディ・ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ。
(15) 上記(8)から分かれたグループのトップは、かつてジェノバで理髪師だったとの噂(本人は否定)のあるイタリア人エンリコ・ヴィーゴ(Enrico Vigo)である。ビザンチン皇室王子ヘンリ・コンスタンチン・デ・ヴィーゴ・パレオロゴ閣下(His Imperial and Royal Highness Prince Henry III Constantine de Vigo Lascaris Aleramico Paleologus de Montferrat)とか、ビザンチン皇帝の皇位継承者とか、テッサリーの王子などと自称している。以前はミュンヘンに住んでいたが、直近はカンヌに住んでいる。ヴィーゴのグループは米国で活動的で、パーム・ビーチで怪しげな装束を身に付けた大規模なイベントを組織したことがある。ヴィーゴはJean Cyrille GodefroyとPatrice Chairoffを被告として詐称を理由に訴えたことがある。被告が相手をしなかったので、裁判で勝ってしまい、それをもって自らの皇位継承の正当性をフランス裁判所が認めたと主張している。しかし、皇位継承はフランス法の全く別の体系のもとに規制されているので、この裁判には意味がない。フランス政府はヴィーゴの皇位や彼の与えた爵位を認めていないし、将来も認めることはないと言明している。
《145ページ》
有名な例がある。コパカバナでホステスをしていた通称「デヴィ」(本名は根本七保子)のケースだ。1966年の『週刊現代』によると、彼女は〈東日貿易〉の“秘書”に仕立てられて、スカルノに接近したという。東日貿易は、児玉誉士夫が指揮をとる日本の商社で、インドネシアへのさらなる進出をめざしていた。彼女はみごとに使命を果たした。最終的には大統領の第三夫人におさまって、スカルノの末っ子を産んだほどだ。偶然かどうかは知らないが、東日貿易はその後、スカルノが67年に失脚するまで、ジャカルタで荒稼ぎしている。
《22〜24ページ》
翌59年6月。東京の街は5年後の東京オリンピック開催のニュースで持ちきりだった。桐島は久保正雄の指示で赤坂のクラブ「コパカバーナ」に行った。再び来日した日本びいきのスカルノに日本女性を紹介するためだ。
「そこでママさんから『あの子どうですか』と引き合わされたのがデヴィさんだった。他の女の子は派手なドレス姿なのに、一人だけ地味な紫のとっくりセーターを着ていてね。この子はずいぶん真面目なのか、それとも全く売れないのか、どっちなのだろうと思った。きらびやかな赤坂のナイトクラブにはひどく場違いの感じがしたな」
後のスカルノ大統領夫人デヴィの旧姓は根本七保子。当時19歳だった。桐島はデヴィをスカルノの滞在先の帝国ホテルに車で送った。
「途中でデヴィさんから『どんな人なの』と聞かれ『ちょっと色の黒い人だよ』と答えた。帝国ホテルの前で彼女に新聞か何かを入れた茶色の封筒を持たせ(社用でホテルを訪ねたような格好をさせて)大統領の副官に引き継いだのを覚えている」
スカルノはデヴィを一目で気に入り、帰国後間もなくインドネシアに呼んだ。デヴィは59年10月、久保とともにジャカルタ入りした。桐島が久保にジャカルタ赴任を命じられたのはそれから数カ月後のことだ。
「久保さんは最初から東日の商売のためにデヴィさんを利用しようとしたわけじゃない。あの時、スカルノさんに頼まれて日本女性を紹介しただけで、だれでもよかった。それをたまたまスカルノさんがとても気に入ったので、久保さんがデヴィさんに現金五百万円と等々力(東京都世田谷区)の百坪の土地を渡して、ジャカルタ行きを説得したんだ」
西イリアン進攻作戦
インドネシア賠償ビジネスは当初、首相岸信介と関係の深い中堅商社「木下産商」の独壇場だった。だが、久保はデヴィの「後見人」としてスカルノとのつながりを強める一方、自民党副総裁大野伴睦や河野一郎、「右翼の黒幕」児玉誉士夫らに接近。暴力団幹部とも親交を結びながら、急速に木下産商の牙城を切り崩していった。
「海峡の底流で」13回続きの(7−9)
「偽装」十万ドルチャリティを演出したデヴィ夫人の「財欠」
インドネシアの故スカルノ大統領の未亡人デヴィ夫人(53)が、米国コロラド州アスペンの郡拘置所を出所したのが今年の三月。パーティの席上で女性客に大怪我を負わせたからだった。が、デヴィ夫人、出所するや「地球環境保護委員会」なるものを組織して委員長に就任。四月二十六日には、ホテルオークラで「国連環境計画支援チャリティ・パーティ」を開催し、収益金十万ドルを寄付したことになっていた‥‥。
(略)
もっとも、案内状にあった各国大使ご夫妻の姿はほとんどなく、著名人というと、元労相の山口敏夫代議士と歌手の美川憲一くらい。(略)
奇妙なことに、パーティ当日の“主賓”であった国連環境計画北米局長のノエル・ブラウン博士に取材を申し込んだところ、ニューヨークにいるブラウン博士ではなく、東京滞在のデヴィ夫人がまず応答してきたのである。
(略)
そんな“身勝手”を重々承知の上で、デヴィ夫人と親しい付合いを続けてきた埼玉県の鉄工業者はこういってかばうのだ。
「(略)それに最近、事業というかマルチに手を出し始めてね。あの人、ああいうのにのめり込むんだからなあ」
(略)